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映画って、
 9月初旬の日経に、フジテレビの亀山千広氏によるテレビ局が日本の映画業界をリードする(大意)というタイトルの記事が載っていた。

 軽く読み流したのだが、我々は所謂映画を作っているのではない、という類の表現が、非常に心に残った。肝心の新聞を捨ててしまったので正確に引用できなくて申し訳ありません。
 つまり、テレビから連なるコンテンツをテレビ局が確保して延長線上にあるものを作るということらしい。テレビ人気は一つの指標となり、映画を作っていく上で大きなアドバンテージとなる。

 僕は大分前から(15年前くらいからか)ハリウッド映画も含めつまらなくなってしまったと感じていて、タイタニックでやっぱりもういいやと思ってしまったクチ(やたらとロングランするので見に行った)なのだが、こういう映画を見たときに友達に説明するのに「二時間ドラマの延長」という表現を使ってきたものだった。二時間ドラマならばテレビで見ればいいし、また「その話」でなければいけないという限定性もなく、当然特定の「二時間ドラマの延長映画」をわざわざ金を出して見に行く価値がない、ということだ。
 この亀山氏の発言をみて、向こう側の人たちはわかっていてそうやっているんだ、とある種感動を覚えたのです。
 
 格別新しい主義主張があるわけでもなく、古今東西使い古されたプロットで、登場人物と地域だけが違っているどこかで見たことがあるような話。まさしくテレビで見るにふさわしい使い捨てのようなものが、産業の構造の問題からか、儲かるものとして映画に逆戻りする。
 
 実際、流行で作られた映画を後で見返して、新しい発見があるだろうか?明石家さんまの話と同様、その時は笑えても後で見返したり、話として切り抜くと途端に価値(面白さ)を失うものに似ている。一度筋を覚えたら、細部はなんとでもよく、思い出すには事足りる。さんまはすべらない話について批判をしていた(芸人ならすべらない話をして当然だから、という意味)のだが、ここには大きな違いがある。一つはアドリブ、”教室の人気者”的お笑いと、後で誰が話しても一定の面白さを持つお笑いの二つ。どちらも重要な笑いだが、前者の笑いは後で別の場所で聞いたりするとまったく笑えなかったりするのでシチュエーションと鮮度が命。なのでさんまが目指すものとすべらないが意図するものとは全く質が違う。

 閑話休題。
 本物は、見返す度に新しく、常に心によくも悪くも引っかかっているものだ。俳優がその時はやっているとかはやっていないとかそんなことは関係がない。そこに映る「映像」そのもの全てが意味を持ってこちらに迫る。セリフ、構図、カメラワーク、照明、全てがその作家の「芸術」を表している。自分が歩んでいることを実感したり確認するために、定点観測としても意味がある。その点、文学でも何でも同じでありましょう。

 だらだらと書いてしまいました。つまりは、わかりやすい、誰にでもわかるように作られた映画を擁護して(ここでは、「映像美」「映像作品」を目指す者と、そうでなくテレビでなくとも主にビジネスによって動いているもの、という二項を対立させようとしています)、JLCやらヌーヴェルヴァーグとなると途端に拒否反応を示すような人達は、作っている側の人たちがそもそも「映像美」や「作家性」などを求めていない、と明言していることを諒解すべきだ。10人いたら10人泣かそうとする=売上の極大化を目指す当たり前のビジネスなのだということを。
  
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【2009/09/23 19:16】 | 芸術一般 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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